海水浴場行きのバス停も存在
鈴鹿川の南に広がる旧三重郡楠町。このあたりは南北朝時代には楠城が築かれ、4代目城主の楠正威からは、楠一族が統治していた。8代目の楠正盛の時に豊臣秀吉によって滅ぼされるが、215年間の長きにわたり地域を治めていた影響は大きく、1889(明治22)年の町村制施行時には楠村と名付けられた。そんな村に初めて駅が誕生したのは1917(大正6)年12月22日。当時、津と四日市を結ぶべく路線を延長していた伊勢鉄道が、千代崎駅・楠駅間を開通した際に開業した。それに遅れること2年、1919(大正8)年の楠駅・海山道駅間開通時に北楠駅が誕生している。
1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけては第一次世界大戦があり、日本はインフレ傾向にあった。鈴鹿川とその支流に挟まれた場所にできた北楠駅は、利用客の低迷もあって1926(昭和元)年12月26日に営業を休止。しかし1933(昭和8)年には駅周辺に紡績工場が建ち、利用者の増加が見込まれたため、翌年に営業を再開している。
1936(昭和11)年、会社合併により両駅は参宮急行電鉄伊勢線の駅に。そして発展を続ける村は1940(昭和15)年に楠町となった。なおこの頃まで、北楠駅前には吉崎海岸海水浴場行きのバス停が設けられていた。わずか数年のことだったというが、駅とビーチを結んだバス停の様子は、楠町史でも見ることができる。
駅周辺を襲った戦災と天災
1941(昭和16)年3月には、大阪電気軌道が参宮急行電鉄を合併して関西急行鉄道を設立。さらに1944(昭和19)年6月、関西急行鉄道は南海鉄道と合併し近畿日本鉄道となった(※後の南海鉄道は1947年に分離)。当時の日本は第二次世界大戦の最中。両駅周辺には紡績工場が立地していたこともあり、鉄道を使った貨物輸送も盛んだった。1945(昭和20)年、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、楠町の小倉、本郷、南五味塚、北五味塚などが空襲される。楠駅・北楠駅や、町内の鉄道施設は被害を免れたが、駅周辺の寺社の中には、空襲で山門を残すのみとなったところもあった。
戦争で荒廃した施設や車両は急ピッチで復旧整備された。板張りとなっていた窓は順次ガラスに替えられ、輸送復興を担った新しい車両も追加。1947(昭和22)年には、名古屋線に戦後初となる7両編成も登場した。
戦後の歩みを見てみると、台風にまつわる記録が少なくない。1951(昭和26)年10月15日には、ルース台風により名古屋線は塩浜駅・四日市駅間で線路下の砂利が流出。また1953(昭和28)年、この地方は台風13号に急襲される。台風の通過時が伊勢湾の満潮時と重なった為、海岸の堤防が20箇所、2kmにわたって決壊。楠町では町域の約半分、海岸近くの水田が水に浸かったが、駅舎の被害は特に記録されていない。また、この被災を契機に堤防が強化されたため、1959(昭和34)年9月の伊勢湾台風時、楠町内は再び浸水したものの、死者はゼロに食い止められた。
秋のイベントでにぎわう町へ
時は過ぎ2005(平成17)年2月7日、楠町は隣接する四日市市と合併した。現在、四日市市内には近鉄のほか、東海旅客鉄道、三岐鉄道、伊勢鉄道が走り、様々な駅が存在。そんな中、楠駅・北楠駅はどこかのんびりとした風情を残しながら、今も地域の住民に愛されている。
また楠町はハマグリの畜養でも知られ、全国で指折りの出荷高を誇る。毎秋、楠緑地公園で行われる「楠健康ふれあいフェスタ」では、ハマグリの貝殻を飛ばす「ハマグリ飛ばし」や、ハマグリの大盤振る舞いが有名だ(本年度は9月28日予定)。さらに毎年10月の第2土・日曜は、金箔の施された鯨船が練り進む「鯨船練り行事」が行われる(詳細は左記)。南五味塚地区には昔ながらの趣を残す酒蔵もあるので、ノスタルジックな風景を探しに行くのも楽しい。楠駅・北楠駅を降りたち、秋の風を感じに足を運んでみては。 |
 |
 |
 |
(写真上)昭和50年頃の楠駅。この頃に新築された駅舎は、現在(写真右下)もほとんど変わっていない
(写真左下)1959(昭和34)年11月23日に撮影された北楠駅南側の様子。名古屋線の軌間拡幅工事を行っている |
 |
 |
 |
| 関西急行鉄道時代のモハ1形。1938(昭和13)年7月、旧木曽川橋梁で撮影したもの |
 |
 |
 |
(写真左)昭和15年頃まで北楠駅に設けられていた吉崎海岸海水浴場行きのバス停
(写真右)1953(昭和28)年の台風13号襲来により、海岸堤防が決壊した |
 |
 |
 |
(写真左)ホームの間を4本の線路が横たわる楠駅。外退避形式と呼ばれ、中央の2本を通過列車が利用する
(写真右)現在の北楠駅の様子。駅前から楠城跡を目指す歴史散策コースも設定されている |
|