中日新聞 三重版
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悲運の武将織田信孝の志を伝える神戸城跡
近鉄鈴鹿市駅から南西に位置する神戸公園内には、神戸城の土台となった石垣が残る。
戦国時代、織田信長は神戸を攻めた際、神戸友盛と和睦を結ぶため、三男である信孝を養子として送り込んだ。当時まだ二十歳にも満たなかった信孝だが、信長の後継者としての気概から、堀を巡らし、天守を築き、神戸城を築いた。また父に倣って楽市楽座を実施するなど、城下町の形成に寄与したと言われている。
後に本能寺の変で信長が息絶え、自らも秀吉に追われて知多半島の野間で自害するに至った信孝。その短く悲運な一生の中で成し遂げたわずかな功績を、この地に残したと言えよう。
神戸の城跡には現在、城自体の面影はないが、大小の自然石を積み上げる野面積という手法によって造られた勇壮な石垣は、信孝が抱いた織田家としての気高さを伝えている。
旧伊勢街道沿いに見る宿場町神戸の町並み
時を経て江戸時代に入ると、伊勢へ向かう参宮客の宿場町として神戸の町は賑わいを見せる。その名残は、鈴鹿市駅周辺にも散見される。
鈴鹿市駅から旧伊勢街道を北へ500mほど歩くと、道の両側に石垣が残る。ここは、神戸宿の入口としての役割を担っていた神戸の見付跡だ。土塁と石垣を築き、夜間の通行を禁ずるための木戸が設けられていた。また、見付跡へ向かう道中には、格子戸が印象的な旧建築が並ぶ。煙草の製造販売をしていた商家や、お伊勢参りの人々をもてなした旅籠の建物などが今なお残り、往時の栄華を伝えている。
鈴鹿市駅の南300mほどに位置する神戸別院も見どころの一つ。この建物は近世に入り、真宗高田派本山の北勢における拠点として建てられたもの。寺院は西や北を背に建つのが一般的とされる中、この神戸別院は、参宮街道に面して西向きに建てられているのも特徴。また明治13年には明治天皇の行在所として使われるなど、歴史的にも貴重な建物である。
一大港町として繁栄した白子港
神戸を後にして、国道23号線を横断し、白子方面へ向かう。
白子の港と言えば、江戸初期には、江戸・上方間の中継地点として、名古屋や堺にも劣らないほどの荷役量を誇る一大貿易港であった。当時の白子廻船と言えば、ロシアに漂流した大黒屋光太夫が思い起こされる。
白子の廻船問屋に雇われる船頭であった光太夫は、天明2年白子港を出港し、江戸へ向かった。だが途中で遭難し、7ヵ月もの間、太平洋を漂流した末、アリューシャン列島に辿り着く。そこで狩りに来ていたロシア人と知り合い、ロシア語をマスターした光太夫は、日本に帰国後、ロシアに関する知識やロシア人との親交のおかげで厚遇を受けることとなった。
帰国後の光太夫は歴史上、故郷に帰ることなく江戸で生涯を終えたと伝えられていたが、昭和61年に発見された古文書の記述により、光太夫が鈴鹿に一時帰郷していたことが判明したというエピソードもある。時を経て、再び脚光を浴びることになった光太夫。彼の出帆の地である白子港緑地には、その偉業に敬意を払い、モニュメント「刻の軌跡」が建てられている。
白子が生んだ文化伊勢型紙の技にふれる
江戸時代の隆盛を伝えるもう一つの遺産が伊勢型紙である。型紙を使って染められた着物や裃は当時、武家たちの間で流行し、その紋様を競い合うなど、全国的な人気を博すようになる。そして絵符、鑑札、通り切手などの特権が与えられた伊勢型紙は飛躍的に発展を遂げたのだ。その歴史や技術、文化を体系的に知ることができる伊勢型紙資料館は、白子駅の南西300mほどの場所にある。また、伊勢形紙協同組合では、その文化的価値を再興しようと型紙を利用した商品の開発なども検討中。
歴史に彩られた鈴鹿市を歩き、この町の新たな可能性に期待を膨らませてみるのもよいだろう。
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