中日新聞 三重版
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伊勢と近江を結ぶ要地千種城周辺の繁栄ぶり
菰野町は南部に三滝川、北部に朝明川が流れる。三滝川流域には菰野、千種、鵜川原地区が形成され、朝明川流域には朝上、千種、竹永地区が広がっている。中でも中世、千種氏によって城が構えられ、北伊勢地方の要所として一時代を築いたのが千種地区である。
当時、伊勢の四日市と近江の日野を結ぶ交易路として栄え、商人のみならず戦国武将たちにとっても重要な往来路だった千草街道。信長も通行していたと言われ、賑わいを見せた千草街道沿いにおいて、千種城は交易商人たちの関所としての役割を担っていた。
その起こりは南北朝時代。後醍醐天皇の忠臣であった千種忠顕は、頭中将という栄職に就き、京都六波羅攻めに参戦して勝利する。その際に与えられた没収地の一つが千種の地であった。忠顕の子・顕経は、鵜川原の禅林寺城を築き、三重郡を統括。その領地は24郷にもおよび、永徳元(1381)年、顕経は鈴鹿山脈の麓にある小高い丘に千種城を構えたのだ。
戦国期、伊勢は大きく南勢五郡、安濃・奄芸二郡、鈴鹿・河曲二郡、員弁・桑名・朝明・三重四郡に分かれており、かつ北勢地区は「北勢四十八家」といわれる諸侍が分領、千種氏は四十八家中の最有力者として統括にあたった。
その後、元和元(1615)年、大坂夏の陣により当時の城主であった顕理が戦死したことで千種城は落城。現在、千種地区の南の外れにあたる城址には記念碑が残るのみとなっているが、城址を取り囲む地形の起伏などが、自然の要塞を利用した山城としての往時の姿を彷彿させる。
千種城址から東へ約600mの位置に千種神社がある。この地はかつて、千種城と共に千草越えを監視する要所となっていた金ヶ原城があった地。明治期に千種村内の榊原神明社、鹿島神社、原野神明社、八幡社、春日社を合祀するために建てられた神社である。
近世約270年に及び菰野を統率した土方家
近世に入ると、菰野地区では土方家の統治時代が続く。関ヶ原の戦いで勝利を収めた徳川家康が大名配置を行った際、伊勢菰野に土方雄氏を据え、菰野藩1万2千石を与えた。雄氏はここに陣屋を設け、寛永7(1630)年には菰野城の南に八幡宮を創建し、菰野藩成立の礎を築いた。
ちなみに雄氏の正室八重姫は、享年92歳と長寿をまっとうし雄氏を支え、三世雄豊の代にいたるまで菰野藩の基盤づくりに大いに貢献した。その内助の功は、今なお語り継がれている。
雄氏の頃には簡素だった藩邸を整備したのが、二世雄高である。寛永12(1635)年、雄氏が病を理由に隠居した後、後継者となった雄高は東町、川原町を新設して商工業者を誘致し、領地各所に散らばっていた藩士たちを集めて侍町を設けるなど、城下町の整備に尽力した。さらに三世雄豊の頃には、領地すべての検地を実施、年貢や土地面積の不公平を正し、「明暦の内検」と称される徴租の基準を作った。
歴史に翻弄され続けた菰野城の終えんと面影
明治元(1868)年、十二世雄永は益子姫を正室に迎えるにあたり、堀と角櫓を設けた。領民の協力によって東西92間(約167m)、南北73間(約133m)、幅4間(約7・3m)の堀と二層の角櫓が築かれたが、明治の廃藩置県により菰野県庁となった後、菰野県が廃され菰野城は廃城、明治6(1873)年には取り壊されてしまった。
菰野の城址にあたる現在の菰野小学校の敷地には、西北に城堀の一部が残り、講堂の南には記念碑が建てられるなど、およそ270年におよんだ土方家の統治時代を色濃く伝えている。
見性寺の墓地を訪れて菰野藩主の心に触れる
最後にぜひ立ち寄りたいのが、菰野駅の南、約200mの所にある見性寺だ。境内の奥へ進み、右手の階段を上ると二世雄高をはじめ、歴代藩主の墓碑が並ぶ。また左手の階段を上ると、初代雄氏の妻八重姫(玉雄院)など藩主の夫人たちが葬られている。
清涼な空気が漂う林の中を歩き、近世の歴史を築いた菰野の祖に思いを馳せてみたい。
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