中日新聞 三重版
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築城の名人高虎の知恵と技を集めた城
 西を奈良と接する伊賀上野の旧城下町は、古くから交通の要衝として栄え、文化的にも発展した地域だった。
 天正13(1585)年には、大和郡山より移封した筒井定次によって、伊賀上野城に三層の天守が構えられ、殿門が整えられるなど改修が行われた。その城をさらに勇壮な姿とし、城下町を整備したのが、藤堂高虎である。
 関ヶ原の戦いに勝った徳川家康のもと、伊予から転封した高虎は伊賀10万石、伊勢国の内10万石、伊予国の内2万石を治める大名となるが、「津は平城なり。当座の休息所までと思うべし。伊賀は秘蔵の国、上野は要害の地、根拠とすべし」という家康からの命をうけ、伊賀上野の強化と城の大改修に着手した。
 紀伊や大和の反勢力の抑制や、西国大名の監視、さらには豊臣家討伐への備えなど、要衝としての役割を果たす城を造るため、築城の名人と評されていた高虎は知恵を絞る。自ら縄張りを指図し、本丸を西に拡大。当時まだ珍しかった層建てによる五層の大天守閣を築く。高虎が層建てによる建築を選んだのは、目前に迫る豊臣勢力との戦いのため工費を抑え、かつ工期を短くするためだった。また、それまで石垣の高さは10間が一般的とされていたが、鉄砲で攻められても弾が届かないように15間(約29・7メートル※)もある壮大な石垣を築き、その周りに堀を巡らせた。
 新しい城造りを試みた高虎であったが、竣工直前、暴風雨に見舞われ、天守閣は倒壊してしまう。現在、上野公園の敷地に残る城跡では、日本でも屈指の高さを誇る高石垣が、高虎の優れた築城術を伝えている
先人の生活にふれる碁盤目状の城下町
 城下町の整備にも手腕を発揮した高虎。町を歩くと、いたる所に往時の名残が見受けられる。例えば、町名に留意してみると、上野忍町や上野鉄砲町など、その呼称から、当時の人々の息づかいが聞こえてくるようだ。また、伊賀上野の特徴として、碁盤目状に区画された町並みが挙げられる。戦国武将が作る城下町と言えば、攻め込んできた敵を惑わせるため、道を屈折させて入り組んだ町を形成することが多かったが、高虎は東西南北に道を通し、道幅を広くした。これは近い将来、戦国の世が明けた時に、商業の妨げにならないようにと考えた高虎の先見性を表すエピソードと言えよう。
 他にも中之立町通りにある赤井家や三之町通りにある入交家など、かつての暮らしぶりを伝える興味深い武家屋敷が、今なお守り継がれている。
歴代の藤堂家が眠る白壁が続く寺町通り
 伊賀上野城のある上野公園や古い町並みを歩きながら、先人の心に思いを馳せた後には、寺町通りを訪れたい。旧上野城下町の東端、広小路駅から南に下る路地だ。城下町守備のために高虎時代に形成された寺院街には、現在も7つの寺が並び、白壁の土塀が続く美しい景観を保っている。
 また通りの北端には、高虎をはじめ歴代の藤堂家を祀る上行寺が静かにたたずむ。天正16(1588)年、高虎によって紀州に創建され、伊予を経てこの地に移された後、藩主藤堂家の菩提寺となった由緒ある寺である。
俳聖芭蕉が愛した伊賀上野の風情
 伊賀上野のもう一つの歴史的な側面は、俳聖松尾芭蕉の生まれ故郷としての表情である。正保元(1644)年伊賀市に生まれた芭蕉は、幼い頃より藤堂藩伊賀付の侍大将であった藤堂新七郎家に仕え、良忠と共に俳諧を学んでいた。後に江戸へ出て俳諧師となるが、しばしば伊賀に帰省し、俳句を残している。
 伊賀市内には、芭蕉翁の生家や記念館、芭蕉翁五庵の一つである蓑虫庵、遺髪を納めた故郷塚など、芭蕉ゆかりの史跡が数多く残る。芭蕉の俳句を通して、伊賀上野の魅力を再発見するのもよいだろう。(※)当時は1間=約1・98メートルとして計算
 

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