中日新聞 三重版
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商いのまち¥シ阪の礎を築いた城主、氏郷
江戸時代、後に越後屋、三越と発展を遂げる三井家の基盤を築いた三井高利を筆頭に、松阪商人は江戸で次々に成功を収め、松阪の町は栄華を極める。
松阪が商いのまち≠ニして発展した背景には、伊勢へとつながる参宮街道と和歌山街道の宿場町として大勢の人々が日本全国から集い、多彩な文化が集積したという地の利が大いに関係しているが、その礎を築いた人物が、戦国時代の名将蒲生氏郷だった。
滋賀県日野町に生まれた氏郷は、天正12(1584)年、豊臣秀吉から南伊勢12万石を与えられ、松阪の松ヶ島城に移る。だが海に面した松ヶ島の地では、敵からの攻撃を防ぎ難いと考え、南へ約5qの地にある四五百(よいほ)の森に松阪城を築いた。台風や火災など度重なる災害により、天守閣をはじめとした城郭内の建物は現存していないが、威風堂々たる石垣が猛将と言われた氏郷の当時の勢いを伝えている。
氏郷は城の築城と共に、城下町の整備にも積極的に取り組んだ。城の周辺に武士、商人を住まわせ、寺を集めた。中でも商業の発展には特に力を注ぐ。郷里の日野町や伊勢の大湊から商人を招き、海岸線近くを通っていた参宮街道を城下町に移すなど、商業によって町を活性化させた。松阪での功績が認められた氏郷は、わずか6年で会津若松へと移封され、その後、92万石の太守となる。松阪城はその後、服部氏、古田氏などが相次いで城主となるが、元和5(1619)年、紀州徳川家の祖である頼宣の領地となり、紀州藩松阪城代役所などの出先機関が置かれた。江戸末期、城主不在の松阪城下に、城を警護するための紀州藩士が移り住んだ場所が、現在も残る御城番屋敷だ。城へと続く石畳を挟むように、青々とした槙垣が約100m続き、東に10軒、西に9軒(当時は10軒)の武家屋敷が連なる。19軒の内17軒は、140年以上の時を経た今なお、人々が日常生活を営んでいる。
本居宣長が町に残した学問への志と郷土愛
松阪の町が商都として栄えた江戸時代、日本を代表する偉人が誕生する。国学者の本居宣長だ。木綿商を営む小津家に生を受けた宣長は、母の意志を受けて医師を目指す。京都で医学を学びながら、古典や和歌などを勉強した宣長は帰郷後、現在の魚町に町医を開業した。
宣長が国学者として名を馳せるきっかけとなったのは、宝暦13(1763)年、後に松阪の一夜≠ニ呼ばれる出来事である。かねてより尊敬していた国学者、賀茂真淵が松阪の旅館「新上屋」に宿泊していることを聞きつけ、宣長は対面を申し出る。快く応じた真淵に宣長は、一晩かけて古事記研究への熱い思いを語り、真淵の激励を受ける。二人の対面はこの時の一回のみであるが、以降手紙のやりとりを通じて宣長は真淵の教えを受け、35年の歳月をかけて全44巻の『古事記伝』を完成させた。
松阪城跡のある松阪公園内の「本居宣長記念館」には、宣長に関する1万6000点もの資料が保存され、一部が公開されている。また、記念館下に移築された「鈴屋」と呼ばれる建物は、宣長が12歳から72歳まで暮らした住居。もともと魚町にあったが保存、管理のために公園内に移され、魚町の邸宅跡には、宣長邸の礎石のみが残る。
他にも松阪の町を歩くと、至る所で宣長の足跡に出会うことができる。和歌山街道と参宮街道が交わる石道しるべの西向かいの通りには、宣長が賀茂真淵と語り明かした「新上屋」跡の碑が立つ。また、本居一族の菩提寺である樹敬寺には、宣長の「参り墓」や宣長の妻、長男春庭の墓などが残る。なお宣長自身は、生前こよなく愛した山室山の奥墓(おくつき)に埋葬され、墓の場所、墓石の形状などを宣長本人がこと細かく記した遺言書に沿って葬られている。
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蒲生氏郷が築いた地盤を基に才気を発揮し、富みを手に入れた松阪商人たち。流行の遊びを謳歌し、様々な文化的刺激を受けた彼らが、最も心を惹かれ、のめり込んだのは宣長が伝える学問だった。 郷土を代表する偉人への感謝と敬意の念は、今なお松阪の人々の心に誇りとして息づいている。
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